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更新日:2011年5月19日

自治労復興支援ボランティア活動に参加して

大阪市従業員労働組合・書記次長  中原 康夫

中原康夫さん

中原康夫さん

 自治労大阪第1次ボランティアグループ11人は、8時に新大阪駅に集合し、府本部・単組・支部役員等の見送りを受けて8時37分発の「のぞみ」で東京駅へ。駅近くのパーキングからチャーターバスで11時45分に仙台市内へ向けて出発。東北自動車を北上し、17時には大阪のベースキャンプとなる「アークホテル仙台」に到着。仙台市内の街の様子はいたって平常であり、正直、テレビ映像とのギャップに少し違和感を持った。

 到着後、直ちに現地対策会議が行われ、中央本部からの全体オリエンテーションを受けて具体支援活動内容を確認した後、各チーム代表を交えた班長会議を開催。この段階で大阪は仙台市から南に位置する岩沼市内の「行政事務への協力」と避難所となっている「農村環境改善センターの運営」を担当することとなった。

避難所となっている農村環境改善センター

避難所となっている農村環境改善センター

 翌11日9時、青野府本部局組織局次長と大阪市従のメンバー5人は、支援活動地の「農村環境改善センター」に到着。現地担当の岩沼市職員・大友さんとの引き継ぎを終え、主に受付業務(避難者の外出簿記入、自転車・ミニバイク・レンタカーの貸出簿記入、入所者・退所者名簿の管理、体育館の温度管理、暖房用灯油タンクの点検、支援物資の在庫管理、来客者の案内など)を遠藤館長・佐藤職員(非常勤)との連携のもとに行った。

 この時点で避難している方は80人。その多くは仙台空港の東南部に位置する「相の釜地区」で大津波の被害にあった方々で、地震の際、指定避難所となっている仙台空港3Fロビーから自宅や自家用車などが濁流にのまれていくのを呆然と見ていたという。その後は仙台空港復旧のために自衛隊や米軍がベースキャンプとして使用するため、着の身着のままで空港から一時的に他の臨時避難所へと移転したのち、「改善センター」に落ち着いたという。 この避難所では、支援物資や避難所近隣の農家から差し入れられた食材をもとに、調理担当責任者の佐々木さんを中心に、自主的に住民のローテーションで3食を調理しており、管内の清掃なども順番制で執り行われていた。ガス・水道・電気などのライフラインは完備され、風呂は隣接するリゾート施設から月・金曜日の週2回、送迎バスがあり、住民の皆さんの楽しみになっているようだ。被災者の皆さんは、あれほどの酷い災害に見舞われながらも、極力明るくふるまわれていたが、「もう何もかも無くなった。ゼロよりマイナスからだ。考えていても仕方がない」と喫煙所で遠くを見て話しておられたことが強く印象に残る。

何もかもなくなった被災地

 第1次グループは「先遣隊」の役割も担っていた。まず、避難所の運営にあたっては、6人を日勤2人、24時間勤2人、非番(夜勤明け)2人のローテーションとしたが、11日から続いた強い余震にはかなりの恐怖感を覚えた。また、13日には避難所で自治会を運営する中川会長・桜井区長のお計らいで「相の釜地区」被災地を視察することができた。言葉に表すことができない悲惨な壊滅的状況を目の当たりにした時、この場景をどのようにして組合員の皆さんに伝えればよいのか分からなかったほど強いショックを受けた。

 滞在中、同じく第1次グループで派遣された兵庫県本部の支援業務に大幅な変更があり、急遽、現地対策会議の協議を経て大阪からも仮設の「遺体安置場」となっている名取市「空港ボウル」に応援に入ることとなった。業務内容はご遺体の遺品である着衣を綺麗に洗濯し、身元が判明したご遺体のご遺族や火葬された仏さまにお返しする業務であった。太々野部長は、14日以降2日間もその業務に就いた。特に最終16日、母親の棺とともに小さな棺が運び込まれた時の心情を涙ながらに語っていた。彼が体験し、心に刻んだことは彼自身から報告されることと思う。

 こうした過酷な業務は、震災発生からの時間の経過とともに終息するかもしれない。しかし、現地の復興作業はかなりの期間を要するだろう。引き続き自治労ボランティアをはじめ、各種要請に基づく現地行動に参加される組合員のみなさん、どのような業務に就いても決して無理をせず、そしてまた、大阪市従組合員としての誇りを持って活動に従事していただきたい。

 私たち第1グループの活動が、被災地自治体職員や被災された皆さんにとってどれだけお役に立てたかは分からないが、この報告が引き続くボランティア活動への参考になればと思う。

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