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更新日:2011年7月5日

宮城で避難所・市民を支援
自治労 被災地ボランティアで

自治労東大阪労働組合学校給食評議会 増井 厚彦

 5月21日(土)から30日(月)まで、宮城県に自治労復興支援活動のボランティアに行きました。私たちが所属した宮城県南部班には自治労大阪から15名、自治労兵庫から14名の計29名が参加し、第7グループとして支援活動を実施しました。

被災地

  宮城県仙台市のアークホテル仙台をベースキャンプに、名取市立増田小学校、増田西小学校、高舘小学校、増田中学校、第二中学校に設置してある避難所の支援活動や名取市役所、岩沼市役所の行政支援活動を行いました。私は増田中学校に派遣されました。

 私たちの役割は、全国の自治労組合員の代表として被災地に入り、現地で苦闘する自治労の仲間を支援する中から、被災したすべての人々の救援と被災地の復旧・復興を進めていく手助けとなることでした。

 避難所では、夜間の地震への対応や施設管理、避難者の健康管理、急患対応など不測の事態に備え、24時間体制で業務を行い、被災して避難所に身を寄せている市民らが少しでも安心して過ごせることができるよう取り組みました。

 避難所の状況は、自治会の統治がなされていて、当番体制などの相互扶助で大きなトラブルもなく運営されており、基本的に避難者が自主的な運営をされ、思っていたよりずっと落ち着いているように見えました。しかし、話を聞くと2ヶ月前には、みんなが毎晩のように泣いて夜を過ごしていたらしいです。お風呂も入れず、若い人たちもトイレの手洗い場で髪を洗っていて、「頭が割れそう」と言っていました。普通のことが普通にできない。普通に生活できることがどれだけ幸せなのか実感させられました。

 また、避難所で肩を寄せ合って生活している人たちは、お互いを尊重し合い、みんな助け合って生活しているのを見て、感動させられました。

 避難所は地震と津波によって甚大な被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区の方が多く、家を失った人や家族を亡くした人がおられました。中でも、避難所で一緒に仕事をした名取市職員の方は、同じ市職員の奥さんと7ヶ月のお子さんを亡くされたのにも関わらず、「誇れる夫、父親であり続けたい」と休みも取らず仕事を続けたそうで、実際にお会いしましたが、何とも言えない気持ちになり、励ましの言葉さえ出ませんでした。

 実際に避難所から自転車で30分ぐらいの閖上地区まで行きました。

 そこで目にしたのは、あたり一面無惨にも瓦礫と化した景色でした。テレビを見て想像していた以上に凄まじく、まるで空襲を受けたような光景でした。自衛隊によって整備されたので、地震・津波発生時よりも道路は通行できるようになっていましたが、流された車や船が放置されたままで、まだまだこれからが大変だと思いました。 

被災地
被災地

 24時間の夜勤を終え避難所で過ごす最後の朝、避難所のみんなから「帰ってしまうのね」「さびしいね」と言われ、「涙腺ゆるむからやめてや」と笑って応えていましたが、第8グループとの引き継ぎを終えたあとの別れのあいさつで、避難所の人たちの目には涙が浮かんでいました。一緒に過ごした時間こそ短かったけれど心と心の交流はあったように思えました。「お世話になったね。」「ありがとう。」の避難者の言葉と一人ひとりと交わす握手で、とめどもなく涙が溢れてきました。「いつかまた来るから」「元気でね」と泣き笑いで応えました。

 被災された皆様、ご家族・ご親戚が被災された皆様に心よりお見舞い申し上げ、一日でも早く復旧・復興されることをお祈り申し上げます。

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